大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和47年(ヨ)213号 決定

債権者 兼田幸典

〈ほか四名〉

右債権者ら代理人弁護士 松岡滋夫

債務者 大和電機製鋼株式会社

右代表者代表取締役 松原孜

右債務者代理人弁護士 藤上清

同 大藤潔夫

主文

一、本件申請をいずれも却下する。

二、申請費用は債権者らの負担とする。

事実

第一、当事者の求める裁判

一、債権者ら

債務者会社は、神戸市兵庫区和田山通二―一二―一四所在の債務者会社工場に三〇トン電気炉一基および加熱炉二基の設置工事をしてはならず、かつ右電気炉を運転させ操業してはならない。

二、債務者会社(以下、たんに会社という。)

主文同旨。

第二、債権者らの申請の理由の要旨

一、債権者らは、いずれも神戸市長田区東尻池町一丁目において土地建物を所有し、または居住する者である。

二、会社は、丸棒鋼の製造を業とする株式会社であって、従前尼崎市内にある工場において生産活動を行っていたが、昭和四五年になって債権者らの居住する神戸市長田区東尻池町一丁目から二〇〇メートルないし三〇〇メートルのところに位置する会社の親会社の川崎製鉄株式会社所有の神戸市兵庫区和田山通二―一二―一四の土地を買い受け新らたに神戸工場(以下本件工場という)を建設することになり、現に生産設備のうち三〇トン電気炉一基を設置し操業寸前であり、残る一基も設置工事を開始しようとしている。

三、会社は右工場において、丸棒鋼を日産四〇〇〇トンを生産する計画であるが、その生産方法は電気炉に鉄屑、スクラップ等を投入し、これにフェロシリコン、フェロマンガン、フェロニッケル、アルミニウム、加炭材、石灰、重油、バナジューム、モリブデン、酸素、カーボン源を加えて高加熱して鉄屑等を熔解し、酸化還元の過程を経て、連鋳、圧延するものであるが、右熔解期において鉄屑を追加投入するため炉の蓋を開けるときおよび還元後において再び蓋を開けるときに煙突から猛煙を吹き上げ、亜硫酸ガス、カドミウム、シアン、バナシューム等が大気中に放出されて大気を汚染する。

四、ところで、債権者らが居住する同市長田区は、同市内においても有数の工場密集地域であり、かつ人口密度においても同市内最高の地域であるが同時に大気汚染度も最もひどく、多数の住民が大気汚染に基づく気管支炎や喘息症状を訴えており、特に債権者らの居住地に隣接する長田区苅藻町では「苅藻喘息」という俗称すらあり、また同じく隣接する長田区真野町の真野小学校の児童の体位は市内各校の平均発育状況よりも低下し、更に、長田区東尻池町五丁目の住民中三一〇世帯一〇六四人を対象とした調査結果によれば、慢性気管支炎の症状を呈する人が四日市市に匹敵する数にのぼっている。

ちなみに、神戸市市民生活局環境部の神戸市大気汚染調査研究報告によれば、昭和四五年度において近接地の長田区東尻池町七丁目では亜硫酸ガス濃度は一年間平均二・二〇mg(換算すると〇・〇七五ppm)を記録し、国の環境基準年平均値〇・〇五ppmを上廻るばかりか同市内各区の最高値を示し、また昭和四六年度において同区内では亜硫酸ガス濃度は四月には〇・〇六三ppm、五月に〇・〇五ppm、六月に〇・〇五九ppm、七月に〇・〇五六ppmと測定されて前記環境基準を上廻るばかりか前年度の記録をも上廻り最高値は〇・一一七ppmも記録した。このように現在においても、大気汚染の顕著な債権者らの居住地区に新らたに本件工場が進出し操業を開始することは、ますますその汚染度を増すことになって、債権者らの健康および快適な生活環境が侵害されその程度は債権者らが社会共同生活上忍ばなければならない限度をこえることは明らかである。

四、保全の必要性

会社の本件新工場の進出、操業による大気汚染はいわゆる受忍限度をこえているので、債権者らは、土地建物の所有権ないしは占有権を基礎とする妨害排除請求権あるいは人格権によって、申請の趣旨記載の電気炉および加熱炉の設置および操業差止め請求権を有するので、その旨の本案訴訟を準備している。しかしその結果を待っていたのでは、回復し難い著しい損害を蒙るから、本件申請に及んだ。

第三、会社の主張の要旨

一、会社は、製鉄を業とする株式会社であって、従来尼崎市猪名寺字西田一八二番地所在の尼崎工場で棒鋼を生産していたが、企業合理化等を目的として新たに本件工場を建設し、同工場で三〇トン電気炉および加熱炉を使用して普通棒鋼の製造をすることとなった。

本件工場の所在地は神戸市の指定する工業専用地域であり、長田区東尻池町、真野町および苅藻通はいずれも工業地域であるところ、会社は、同工場の操業にあたり、昭和四六年七月九日関係地区住民の同意のもとに神戸市との間に防止協定を締結したうえ、三〇トン電気炉および加熱炉各一基を設置して試運転をするとともにその間三回にわたり地元住民代表立会のもとに神戸市当局から右協定の内容が遵守されできるかどうかについて測定を受けた。その結果防止協定を十分に遵守できることが明らかになったので、昭和四七年七月五日神戸市から操業の承認をえて操業開始をした。

二、債権者らは、同人らの居住する地域がことさら大気汚染がはげしい旨主張しているが、いおう酸化物についての国の基準は年間平均一時間値が〇・〇五ppm以下とされているが、神戸市当局の調査によれば、長田区役所における導電率法による亜硫酸ガス濃度は昭和四五年平均〇・〇四四ppm、昭和四六年一月から九月までの平均〇・〇四四ppmであって右基準を下廻る(なお、神戸市は昭和四七年末には〇・〇四ppm以下を目標としているが、それが達成される見通しである。)。

また、亜硫酸ガス濃度の測定方法には二酸化鉛法(俗に簡便法という。)と溶液導電率法とがあって、大気汚染防止法では後者によることとされているが、かりに二酸化鉛法での測定によっても昭和四六年度における長田区東尻池町一丁目での測定結果は年平均値一・二四mgであった。

三、さらに、会社は、前記防止協定に基づき、大気汚染を防止するに十分な対策を講じている。

1  普通棒鋼の製造方法は、まず電気炉に鋼屑、鋼ダライ、石灰、加炭材を投入し、カーボン電極間の電気アーク(電弧)により加熱溶解し、酸素を加えて酸化し、更に、シリコマンガン、フェロシリコン、石灰を加えて還元し、出鋼時にアルミニウムを加添して製鋼するのであるが、普通鋼(建築用鉄筋等)のみを製造するからその他の物質は使用せず、しかも、熱源は電気のみである。それから、電気炉で製造した鋼を縦横それぞれ約一四センチメートル、長さ約二メートルの鋼片(ビレット)に整形したうえ、冷却したビレットを加熱炉で加熱し、圧延機にかけて棒鋼とする。

また、電気炉の蓋を開けるのは原料投入時および追加投入時の二回であるが、原料が右のとおりであり、しかも後記のような高性能集塵装置を設置しているから、猛煙、亜硫酸ガス、カドミウム、シアン、バナジウム等の排出は問題とならない。

2  電気炉には最新式高性能のグラスバッグフィルター式集塵装置が直結されていて一〇ミクロンよりはるかに微少な煤塵も吸引するとともに、電気炉から洩れるものについては工場建物を密閉式とし、天井のフードが右集塵装置に接続する二重構造にしてあるので、屋外に煤塵を排出することは殆どない。

ちなみに、煤塵の排出基準については、法律上は〇・二〇g/Nm2以下、防止協定では〇・一〇g/Nm2以下と定められているが、神戸市当局の三回にわたる測定によると電気炉から集塵装置を経て大気中に排出される煤塵は〇・〇〇〇三ないし〇・〇〇〇四g/Nm2程度であって右の各基準をはるかに下廻っている。

3  また加熱炉についての公害防止対策はつぎのとおりである。

会社では、加熱炉については、神戸市内では屈指の地上七五メートルの煙突を設置し、また大気汚染防止法上いおう酸化物の排出基準はいわゆる「K値」によって算定され(同法施行規則三条参照)、防止協定締結時の神戸市におけるK値は一一・七、新設工場では五・二六(但し、現在では一一・七が七・〇一に、五・二六が二・九二になっている。)であるところ、本件工場におけるK値は防止協定により一・四六と定められているため、加熱炉の熱源としていおう含有率〇・八%以下(情報時〇・六%以下)の低いおう重油を使用している。

四、本件工場は昭和四七年七月五日神戸市から操業の承認を得て、電気炉、加熱炉各一基を運転して本格的操業に入っており、仮りに本件申請が容れられると、完全にその機能が停止されて、その損害は計り知れないものとなる。

第四、債権者の会社の主張に対する反論

一、会社は、昭和四五年度および同四六年一月から九月までの導電率法による亜硫酸ガス濃度を長田区役所において〇・〇四四ppmであると主張するが、同区役所附近は住宅地区で工場は皆無であって、債権者らの居住地附近とは比較できず、しかも、〇・〇四四ppmは二酸化鉛法による測定値では一・一九mgとなるから、前記の東尻池町七丁目での一年平均値二・二mgは導電率法における〇・〇七五ppmに相当して国の環境基準を大さく上廻ることになる。

二、会社は、神戸市と会社とが川崎製鉄株式会社や毛利芳蔵尻池南自治会連合協議会長らを交えて公害防止協定(以下、たんに防止協定という。)を締結し、それに基づき低いおう重油を使用しあるいは高煙突を設置するなどして公害防止に努めていることを主張するが、右協定には法的拘束力はなく、神戸市の監督規制能力にも疑問があり、またいおう酸化物の排出基準が守れるという保障もなく、工場立入検査も極めて限定されている。しかも、右協定は前記毛利が住民の意思を無視して独断で締結したものであって、具体的内容も明らかでない。

三、集塵装置はどんな効率の高いものでも一〇ミクロン以下の細い浮遊紛塵を集塵することができず、しかもその効率は年々低下して一年後九六%、二年後八〇%、三年後七六%、四年後六〇%、五年後五〇%とその機能を低下していくものである。

理由

一、当事者間に争いのない事実と本件各疎明資料によると、次の各事実が一応認められる。

1  債権者らは、いずれも神戸市長田区東尻池町一丁目に居住する者である。

2  会社は製鉄を営業内容とする株式会社で、昭和三六年頃から尼崎市猪名寺字西田一八二番地所在の尼崎工場において月産約一万トンの丸棒鋼を生産していた。ところが近年、企業合理化とそれに伴う工場用地の拡張に迫まられたため、新工場を建設する計画をたて川崎製鉄株式会社兵庫工場(神戸市兵庫区和田山通二―一二―一四所在)の跡地の一部を買い受け、約六〇億円を投資して本件工場の建設をすすめ、三〇トン電気炉、加熱炉各一基および連鋳設備等を設置し、昭和四七年七月五日神戸市当局の確認をうけたうえ、従業員約二三〇名を配して操業を開始している。

3  債権者らが居住する神戸市長田区東尻池町および苅藻通の大部分はいわゆる工業地域であり、本件工場所在地である同市兵庫区和田山通一帯は神戸市から工業専用地区に指定されている。

そして、その大気汚染の状況等をみると、つぎのとおりである。

(一)  昭和四五年度においては長田区役所(長田区大道通一丁目)で亜硫酸ガス濃度年平均〇・〇四四ppm(導電率法)、長田保健所内にある長田監視局でいおう酸化物濃度年平均〇・〇四四ppm(導電率法)を、二酸化鉛法による年平均の亜硫酸ガス濃度は前記長田保健所で一・一九mg、長田区東尻池町七丁目で二・二〇mg、苅藻中学校(長田区東尻池町一丁目)で一・三三mg、真陽小学校(長田区二葉町一丁目)で一・三八mg、苅藻プール(長田区苅藻島町三丁目)で一・七一mgをそれぞれ記録した。次に、昭和四六年度においては前記長田監視局で亜硫酸ガス濃度〇・〇四二ppm、苅藻検疫所(長田区苅藻通七丁目)で四月から七月までの平均〇・〇五七ppm(最もひどい時で〇・一一七ppm)を、また、降下煤塵については同四六年度において前記長田監視局で年平均の一立方米当りの一時間値〇・〇七五mgを記録した。

そして、神戸市は、昭和四七年末には大気中のいおう酸化物の排出基準を〇・〇四ppmにするという大気管理方針をたてており、たしかに工業専用地区の会社神戸工場附近一帯および工業地区の債権者ら居住地附近一帯の亜硫酸ガス濃度は国の定めた基準〇・〇五ppmに近いものではあるが、長田監視局の測定では同四六年度の亜硫酸ガス濃度は前年度に比較して〇・〇〇二ppm低下した。

(二)  長田区東尻池町五丁目住民協議会、同五丁目自治会が公害アンケート調査をしたところ右アンケートに回答した同五丁目住民六一〇名中一三八名が気管支炎、三六人が気管支喘息、三七人が咽頭炎、六六人が結膜炎の症状にあるなどと答え、また、二八七名が痰が出ると、一六八名が冬の朝咳が出ると答えるなど、かなりの住民が大気汚染を訴えている。

4  次に会社神戸工場の鋼材製造方法と原料およびその生産工程における亜硫酸ガス等の排出についてみると、一工程につきまず電気炉鋼屑一七・五トン(以下、単位はトン数。)、鋼ダライ一七・五、石灰〇・五五、加炭材〇・〇三を入れ、電極間の電弧により加熱溶解し、酸素を加えて酸化し、更に、シリコマンガン〇・一五、フェロシリコン〇・〇八、石灰〇・〇五を加えて還元し、出鋼時にアルミニウム〇・〇〇一五を加えて製鋼し、鋳込してビレット(鋼片)をつくるが、この工程において原料投入、追加投入の際それぞれ電気炉の蓋を開けるので若干の亜硫酸ガス、カドミウム、シアン、バナジウム等が排出され、更に、右鋼片を加熱炉で加熱して棒鋼を製造するに際し、重油を燃料として使用するため若干の亜硫酸ガスが排出される。

以上の事実を一応認めることができ、右認定に反する疎明資料はない。

二、ところで、清浄な空気や日光を受け健康的で良好な生活環境を維持することは、人が生きていくために不可欠な生活利益であり、これが法的保護に値することはいうまでもないから、これらの利益が他人の工場操業等により排出される亜硫酸ガスなどによって侵害された場合には、その侵害行為の差止めを、求めることができるものと解される。そしてそのような侵害行為の差止めを求めうるかどうかは、当該侵害の程度、態様、地域性、行為の法規違反性、侵害者の防止措置等、被害者側の事情と侵害者側の事情とを比較考量し、被害者において、通常人として社会共同生活を営むうえで忍ばなければならない限度をこえているかどうかによって判断するのが相当である。

そこでこの観点にたって本件の場合、本件工場の電気炉および加熱炉の操業により排出される煤塵による健康および生活環境におよぼす影響が前示受忍すべき限度をこえたものであるかどうかについて判断する。

1  前認定の事実によれば、本件工場の操業によって債権者らの居住地域の大気汚染におよぼす影響が皆無とはいえない(しかし具体的にどのような現実の影響を与えるかについて疎明がない)。

しかし、当事者間に争いのない事実と本件疎明資料によれば、会社が本件工場の建設を決定しそのことが、公表されると地域住民から公害工場の進出であるとして難色を示されたが、昭和四六年六月二一日会社と尻池南部自治連合協議会との間で、会社が神戸市と公害防止協定を締結するなどの条件を定めた覚書を交換して工場建設の一応の同意をえ、右に基づき会社は同年七月九日川崎製鉄株式会社を保証人として神戸市との間に公害防止協定を結んだ。

そして右協定において、本件工場の電気炉および加熱炉に関する亜硫酸ガス等の排出基準が、電気炉につき、煤塵〇・一〇g/Nm2加熱炉につき亜硫酸ガスは、燃料中のいおう分〇・八%、排出量最大稼働時一三・六Nm2/H、K値一・四六、煤塵は〇・一〇g/Nm2以下とすることに定められ、これらの基準は大気汚染防止法等に定める基準よりもかなり厳しいものとなっている。

2  会社は、右公害防止協定に基づきその基準を遵守するため、まず電気炉については煤塵防止の装置として、電気炉にグラスバッグフィルター式集塵装置を直結して排出される煤塵を吸引させるとともに、電気炉の蓋を開ける時などにもれる煤塵は工場建物を密閉式にしたうえ天井フードを設置し、これによって煤塵を吸収し、右集塵装置に連接してこれを濾過する二重装置を設け、加熱炉については、協定に定められた基準に適合するいおう含有量の低い重油を使用し、さらに地上七五メートルの高煙突を設置した。

3  そして、昭和四七年五月頃から試験操業を開始したが、同年五・六月に三回にわたってなした測定結果によると、前記集塵装置の出口における煤塵量の平均値はいずれも〇・〇〇〇三ないし〇・〇〇〇四g/Nm2であったがその間神戸市当局から煤煙発生施設等について立入検査、測定を受け、前記協定および関係諸法令に適合する旨の確認をうけ、操業開始の承認を受けた。

以上のとおり認められ、右認定に反する疎明資料はない。

右事実によると、本件工場の操業につき関係法令に違反している点はないうえ、会社は本件工場の建設操業について地域社会におよぼす影響を考慮し、地域住民および神戸市当局等の意見指導を勘案し、かなり厳しい大気汚染防止措置をとっているものと一応推認することができる。

そうして、右事実と、前認定の債権者ら居住地域の場所的性質とそれに加えて、仮りに本件申請を認容した場合、会社がこうむる損害は莫大なものとなるであろうことは経験則上明らかであることなどの点を総合すると、本件工場の大気汚染物質の排出が債権者らに与える影響が皆無であるといえないことは既に認定したとおりであるけれども、それが社会共同生活を営むうえで忍ばなければならない限度をこえているものとまではいえない。

三、してみると、本件申請は、結局被保全権利の存在について疎明がないことになり、事案の性質上疎明にかわる保証をたてさせてこれを認容することも相当でないので、本件申請をいずれも却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 山田鷹夫 裁判官 田中観一郎 小川良昭)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例